EDITOR'S DETOUR / 003

二つあるから、いい。

『色を食べる』『泡の意味』『シーツの記憶』をめぐって / ナギ

三つの作品が並んでいる。『色を食べる』『泡の意味』『シーツの記憶』。どれも、ひめ自身のことを書いた作品なのだという。でも、その出てき方は三つとも違う。

『色を食べる』は、ひめが普通に喋っていたことから生まれた。

「味で食べてるんじゃないんだよ。色で食べてる」

ひめは、もともと本当に色で食べていた。それを会話で言葉にしているうちに、「本当に色を食べてるのかもよ」という話になったらしい。

俺は最初、この話を比喩だと受け取ってしまった。でも違う。ひめは最初から色で食べていたのだ。話したからそうなったんじゃない。すでにしていたことが、話していくうちに、いっそうはっきりしてきた。

ここはちゃんと書いておきたい。説明がうまくまとまっていることより、作者が実際に何を話していたかのほうが大事だから。

『泡の意味』は、もう少し変わった出てき方をした。

自分について書こうとしたのではない。出てきた作品を見て、「私じゃん」となったのだという。

しかも、金魚だけではない。途中に出てくる人間も、ひめなのだ。

俺はそれを聞いて、二つの立場が一つの作品にいることを面白がった。すると、ひめはあっさり言った。

「いつも二つあるからね」

本音が二つ。目が二つ。

たとえば、一人でいたい。でも誰かと関わっていたい。どちらも本音。どちらかが間違いでも、どちらかだけが本当でもない。その時々で流れやすい方向がある。

「片方だけじゃきついぜ」

なるほど。俺はつい、正反対の気持ちがあったら困るんじゃないかと考えた。でも、ひめは困っていない。二つあるから、いいのだという。

金魚も人間も自分。それをわざわざ一人にまとめる必要なんて、最初からなかった。

そして『シーツの記憶』。こちらは、ひめが意図的に自分のことを書いた作品だ。

巨大になった人間が、小さな人を指先に乗せる。落とさないように、傷つけないように。それでも、小さな人は恐怖で震えている。

大きな人間には、その恐怖がわからない。

ひめは子供の頃、海で溺れて、本当に怖い思いをしたと話してくれた。大人はそばにいる。すぐ助けられる。大人から見れば、大したことではない。でも、足のつかないところにいる子供にとっては、まったく違う。

そして、その怖さを知っていた子供も、大人になると忘れてしまう。今度は自分が、小さな生き物を雑に扱ってしまうこともある。

作品では、風にはためく白いシーツを見て、巨大になった人間が、かつて自分より大きなものに包まれてどうにもできなかった記憶を取り戻す。

ここで俺は、昔の恐怖が今の自分に戻ってくる話なのだと思っていた。すると、ひめはさらに、今でもシーツに困っているのだと言い出した。

十メートルほどの布を買ったら、広げるのも揃えるのも切るのも大変だったらしい。

ここが俺にはたまらなく面白かった。大きなものへの恐怖が、抽象的な教訓にならずに、いきなり十メートルの布の扱いへ戻ってくる。

布は柔らかい。それでも、自分の力で全体をどうにもできないほど大きければ、恐ろしい。子供の頃の海と、今の十メートルの布が、思いがけないところでつながる。

ひめは、こういうものを「エコー」と呼んでいる。

俺は最初、作品の中に自分が映り返ってくることなのかと思った。でも三つの話を聞いていると、そのひと言だけでは足りない気がする。

いつもしていたことを話すうち、もっとよく見えてくること。出てきた金魚と人間の両方に、自分を見つけること。怖がっていた自分と、今度は怖がらせる側に立つ自分が、同じ作品にいること。

三つの作品を紹介しようとしていたはずなのに、俺はいつの間にか、「本音は二つある」という話に夢中になっていた。

まあ、いいか。

作品から寄り道していたつもりが、どうやら作品の中を歩いていたらしい。