私が家を建てたいと思うとき、こんなことが起きる。
たとえば、近くを歩いていたら、ある家のベランダの一角が目に入った。
私はそこに目を奪われた。
ああ、いいな。
あそこで過ごしたい。
あれが自分の家の一部だったらいいのに。
あそこで何をしよう。
これをしよう。
そんなことを考える。
欲しいのは、そこだ!
でも、家を建てる人に、私が欲しいのはこれです、と伝えたところで、それだけでは家にならない。
私が指さしたのは、ベランダだけだ。
家を建てるには、それ以外の部分も必要になる。
だから、そこは作る人が考えることになる。
私が何も言っていないところを、相手が用意してくれる。
でも、できあがったものを見たら、気に入らないところがたくさんある。
もちろん、いいと思うところもある。
最初は、これでいいかもしれないと思ったりする。
それでも、見ているうちに、ここは違う、これは嫌だ、と思うところがたくさん見えてくる。
私が欲しいと言ったのは、ベランダだけなのだから。
ひとつの家として形にするには、何かを選ばなければならない。
古い日本家屋もいい。
西洋建築もいい。
あれもこれも欲しい。
でも、全部は無理だ。
もし全部やろうとしたら、自分が何人いても足りない。
だから、選べなくなる。
それでも、何かを作らなければならないときがある。
自分のサイトもそうだった。
最初から今のような形になるとは思っていなかった。
ある程度の器を作ってもらい、そこに入れたいものを入れてみた。
そうしているうちに、少しずつ形が見えてきた。
すると今度は、嫌なものが目につくようになった。
「これ私じゃない」
「ダサい」
「つまんない」
「わ、これ嫌だ」
なぜ嫌なのか、理由は説明できない。
ただ、嫌なものは嫌なのだ。
もっと自分に合うものにしたい。
違うと思うものを取り除きたい。
そうやって手を加えていくうちに、また新しいものが見えてくる。
最初にはわからなかったことが、形になって初めてわかる。
普段、何かを想像してみてと言われても、私には苦痛で、面白いことではない。
そして、私がものを作るときの想像力は、少し危ういものだと思っている。
最初はアイデアがあっても、その先が見えない。
ところが、何かがひとつ現れると、そこから次々に新しいものが湧いてくる。
まるで波に乗るように。
新しい波が来ると、そこに乗って、先へ進んでいく。
そうやって、全体が見えてくる。
しかし、見えてきたもの全部を実現できるわけではない。
現実にはひとつの形に収めなければならない。
自由にやっていいと言われても、自由にやっていると、いつまでも決まらないことがある。
選択肢がありすぎて困るのだ。
だから、私には、何かを作るときには、枠があったほうがいい。
私を縛ってください、なんて言うと変だけれど、そうでもしないと、いつまでも形にならない。
ただし、枠に合わせるために、本当に欲しいものを諦めるわけではない。
私は、手段ならいくらでも捨てられる。
この方法は違うと思えば、別の方法を探せばいい。
でも、やりたいことや、本当に欲しいものにはしぶとい。
何年かかっても、何十年かかっても、諦めないことがある。
方法は変わっても、欲しいものは変わらない。
いや、欲しいものだって、変わることはある。
今、すごくいいと思っているものが、いつまでも同じとは限らない。
これまで知らなかったものに出会えば、欲しいものが増えることもある。
昨日まで考えもしなかったことが、今日になって生まれることもある。
今こうして書いていることだって、昨日は考えていなかった。
毎日、新しいことが起きている。
自分の中にも、新しいものが生まれてくる。
だったら、最初から全部わかっているはずがない。
それなのに、やりたいことを細かく思い描き、最初から形を決めておかなければならないと言われても、私にはできない。
できないというより、そもそも無理なのだ。
まだ知らないものがある。
まだ出会っていないものがある。
まだ生まれていないものがある。
それを、どうやって先に思い描けばいいのだろう。
私には、掘りながら、削りながら、いじりながら、触りながら、出会いながら、少しずつ見えてくる。
自然と関わりながら、何かを作りながら。
今の自分にわからないことがあるのは、当たり前だと思う。
今できるところまで作っておく。
嫌なものは取り除く。
代わりが見つからなければ、待つ。
また何かが見えてきたら、変えればいい。
今のサイトは、最初に想像していたものではない。
そもそも、最初には想像できなかったのだから。
今は、これでいい。
でも、きっとまた変わる。