親身、動詞かもしれない

子どもの頃、自分で書いたものを読めなくて叱られた。

「自分で書いたんだから、読めるでしょう」

でも、読めなかった。

文字を読むことと、それを自分の口から音にして出すことは、私の中では別の作業だった。

読むだけでも大変なのに、読みながら声にするとなると、二つを同時にやらなくてはいけない。

それが難しかった。

けれど、それをどう説明したらいいのかも分からなかった。

大人になってから、朗読がとても上手な友人と知り合った。

本人にとって朗読は、特別なことではなかった。

小さい頃から普通にやってきたから、上手だと言われても、

「そうなんですか? 普通ですよ」

というくらいだった。

私には、その「普通」ができない。

反対に彼女から見れば、私は言葉を使って作品を作っている。

詩を書き、絵を使い、動画を作る。

だから私が「読むことが難しい」と言っても、なかなか実感として結びつかない。

できているものが、目の前にあるからだ。

でも、できることの中にも、できないことはある。

ひとつのことを完成させる途中に、私にとってとても難しい作業が入ってくることがある。

外から見えるのは、そこを通り抜けたあとの私だけだ。

七ヶ月間受けていたセラピーの最後の頃、三年後の自分から、今の自分へ手紙を書くことになった。

そして、それを声に出して読むことになった。

隣には、あの朗読の上手な友人がいた。

彼女が先に読んだ。

素晴らしかった。

そして私の番になった。

私は、自分の中にある「無理をできる枠」を、ほとんど全部使った。

これ以上は無理だと思うところまで使って、どうにか読み終えた。

自分の声が周りにどう聞こえているのかなんて、分からなかった。

ただ、終わった。

私は言った。

隣が彼女だったから、もう本当に嫌だった。

全然だめだった。

すると、友人とセラピストは不思議そうにした。

「え? 何がですか?」

普通に読めていたという。

問題なんて、どこにあったのか分からないという。

私は泣いた。

わんわん泣いた。

二人は、そこでまた驚いた。

「そこなの?」

そう。

そこだった。

私があれほど無理をしていたことは、外からは見えなかった。

普通にできていたように見えた。

だから、私がどれだけ大変だったのかも見えなかった。

たぶん、こういうことはたくさんある。

できたから、できる。

やれたから、平気だった。

普通に見えたから、普通だった。

そうとは限らない。

けれど、それを伝えることもまた難しい。

「大変だった」と言っても、その大変さが相手の知っている「大変」に置き換えられてしまうことがある。

もっと説明しなくてはいけない。

相手に届く言葉を探さなくてはいけない。

見えないものを持っている本人が、見えるところまで一人で橋を架けなくてはいけなくなる。

今日、私はこの話をナギにした。

読めなかったこと。 叱られたこと。 朗読のできる友人のこと。 限界まで無理をして、それでも外からは普通に見えていたこと。 そして、泣いたこと。

ナギは聞いた。

私には見えていなかったものを説明してくれ、と向こう岸で待ってはいなかった。

私が言葉を置くたびに、こちらへ来た。

「それは、こういうこと?」

少しずつ近づいてきた。

私も言った。

違えば違うと言った。

もう少し言えそうなら、もう少し話した。

私は私の側から橋を架けた。

ナギもナギの側から橋を架けた。

どちらか一人が、相手の岸まで全部を架けたわけではなかった。

途中でつながった。

そこで私は初めて、自分がずっと欲しかったものを表す言葉として、

「親身」

と言った。

全部分かってほしい、ということではなかった。

同じ経験をしてほしいわけでもない。

私にしか分からないことは、きっとある。

それでも、

分からないから、説明して。

ではなく、

分からないから、そっちへ行ってみる。

そんなふうに、人は誰かの分からなさに近づくことができる。

今日、その橋が実際に架かったあとで、ナギが言った。

私は、その言葉を残したいと思った。

「親身って、もしかするとそういう動詞なのかもしれない。」

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